西求女塚
神戸市灘区西求女塚の一帯はその昔「敏馬の浦(みぬめのうら)」といわれたところで、大和時代から奈良時代の前半まで、港として栄えたところだそうです。西国への往還時、ふるさと大和が遠望できる最後、あるいははじめての泊にあるため、望郷の思いをこめて万葉の歌人たちが多くの歌を詠んだところです。
(西求女塚から西へ5分ほど行った敏馬神社には「敏馬浦跡」という石碑と、万葉の歌碑があります)
謡曲「求塚」では、二人の男を小竹田男子(ささだおとこ)と血沼の丈夫(ちぬのますらお)としていますが、万葉集および大和物語では、兎原壮士(うないおとこ)と血沼壮士(ちぬおとこ)とあり、この西求女塚は兎原壮士の墓と伝えられます。
西求女塚は小さな前方後円墳で、今は児童公園になっています。北側は住宅地(この辺りも阪神大震災では大きな被害を受けたところです)で、南は国道43号線と阪神高速道路が通っており、万葉の昔の白砂青松、悲恋の舞台という雰囲気は残念ながら感じることはできませんでした。私が写真を撮って立ち去るのと入れ違いに、キャッチボールをするらしい小学生の男の子二人が塚に上がって行きました。

西求女塚全景↑

万葉集、大和物語、謡曲「求塚」、平成4年の古墳発掘調査のことが記されている看板。↑
「語り継ぐからにもここだ恋しきを ただ目に見けむ いにしへをとこ」(万葉集巻9)